私の登山履歴は、殆どが国内の山岳、それも北アルプスなど本州中部のエリアに集中します。
岩壁登攀や冬山の経験もありますが、好きなのは峰々を結び歩く縦走です。ガイド資格は無雪期の一般ルートが対象であり、独自の山行企画を通じて初心者や中高年登山者の安全な山旅のお手伝いをさせていただきます。
「修業時代」の高校・大学山岳部計7年間の中で一緒に登った先輩・後輩は20名余を数えますが、山岳遭難事故で4名を亡くし2名が身体障がい者となりました。死傷率が3割という重たい数字を背負い、自身も雪崩に遭うなどの体験をしながらもなお、登山をライフワークとして続ける私にとって、安全登山は必守のテーゼ(命題)です。
昭和30年 (1955年) |
東京は下町のほぼ真ん中、墨田区押上(当時は寺島町)にて出生 |
昭和44年 (1969年) |
区立寺島中学校2年生の時に同級生とハイキングを始める。その後、ワンダーフォーゲル部を創設、奥多摩をベースフィールドに登山にハマる。 |
昭和46年 (1971年) |
都立墨田川高校入学。山岳部に入部するも夏合宿前の山行で同級生が事故死(熱中症) 山岳部が休部となったので1年生だけでワンダーフォーゲル部を創設。 |
昭和49年 (1974年) |
墨田川高校を卒業。志望大学に落ちて浪人は確定していたが、校則改訂を巡る学内問題を収めた生徒会活動への貢献が評価されたのか、卒業生総代として答辞を読んだ。 |
昭和50年 (1975年) |
一橋大学法学部入学。予備校での浪人生活は単調だったが、受験勉強に集中した成果か、法学部の学部代表として入学式に臨んだ。すぐに山岳部に入部。 |
昭和54年 (1979年) |
法学部というよりは山岳部を卒業(卒業時は副将)。4年間で約400日の登山生活に没頭。この間、山岳部の後輩2名が春山と夏山で遭難、骨折負傷者の搬出を経験する。 |
昭和56年 (1981年) |
岡山県倉敷市の製鉄所でのサラリーマン時代、山岳部後輩3名がインドヒマラヤ6千m峰を登攀中、雪崩に遭い全員行方不明に。それを契機に倉敷基督教会にて受洗。 |
平成18年 (2006年) |
複数回の転職を経て、司法制度改革で新設された法テラス(日本司法支援センター)に採用され、岡山を振り出しに東京・静岡・大分と異動を重ねる。 |
平成28年 (2016年) |
大分地方事務所にて還暦定年退職。同年5月より「公益社団法人・日本山岳ガイド協会」(JMGA)主催の登山ガイド講習会に参加。筆記・実技の各試験に合格し、10月に「登山ガイド・ステージⅠ」の認定を受ける。 |
平成29年 (2017年) |
東京都にUターン帰省し、『クラブ・ホワイトセイル』を設立してガイド業務を開始。 |
所有資格
◎ JMGA登山ガイド・ステージⅠ (会員番号 2777 ) ◎ SAJスキー検定1級
○ 行政書士 ○ 宅地建物取引主任者 ○ マンション管理業務主任者 など
座右の銘
「人生至るところ青山あり」 → 出典の漢詩では「人生」ではなく「人間」(じんかん=人の世)となっています。
そして蛇足ながら「青山」も「青い山脈」ではなく、「お墓」のことですね。
信仰する宗教
キリスト教・・と云いたいところですが、20代終盤で洗礼は受けたものの、その後、教会への足が遠のき、今は無宗教な状態です。
尊敬する人物
大学時代の恩師で仲人でもある杉原泰雄氏(一橋大学名誉教授・憲法学)。80歳代後半ながら、政府の解釈改憲や安保法制を憂い、若手研究者や法曹人を集めて勉強会してます。それともう一人は、大学時代の寮(一橋YMCA寮)の先輩にあたる作家の故・城山三郎氏(本名:杉浦英一)です。こちらは有名人ですから解説の必要はありませんね。
登山以外に関心あること
「お墓」のことです。現代の日本は、まさに「至るところ青山あり」になりましたが、少子化の影響もあり無用の長物と化す墓も少なくありません。「家制度」の崩壊に伴い『○○家の墓』は見守る者もいなくなりつつあります。私は既存宗派とは無縁な立場でWEB上での「バーチャル墓」を提案していきます。
そのほかに、「昭和50年前後のJPOP」 「日本酒と居酒屋」 「古代史と山城」 「たたら製鉄と日本刀」「隠れキリシタン史」など