私と司法の関係(1)


 私は「ガイドプロフィール」で触れた通り、大学の法学部を卒業しましたが、在学中は山岳部の活動に没頭したこともあり、 法律の勉強は卒業に必要な最低限の単位取得に留まる劣悪な学生でした。

 それでも、所属した憲法学ゼミナールでは、国家権力とは何か?刑罰を科す根拠は何か?等々の

「そもそも議論」を、あーでもない、こーでもない・・と延々続けられたのは「贅沢な経験」でした。

 高校時代は理系のクラスに在籍した私が社会科学系の大学に進学したのは、高校で経験した生徒

会活動が一因となっています。

 昭和40年代半ば、世の中が70年安保闘争や大学紛争へと騒然たる世相にある中、多くの都立高校も、共産党系の民青メンバーが中心となって学校運営を巡る様々な闘争が展開されていました。

 私が在籍した墨田川高校も、「制服の自由化」をテーマにした運動が共産党系の生徒会長によって過激化する傾向が見え始めていました。要求が通らなければロックアウトも辞さず・・等の主張です。

 しかし「軽井沢あさま山荘事件」が勃発し、イデオロギー闘争の不毛さが世間に知れ渡る所となり、学校運営を巡る問題は、権力闘争ではなく、穏やかな対話路線で解決すべく、私は学級委員の集合体で協議機関である「中央委員会」の議長に就任後、生徒会執行部と学校側との調整を図りながら1年半をかけてPTAを交えた「制服問題を巡る三者協議会」を開催。それぞれの立場の意見を認め合う中で合意により校則を改定し、服装の自由化を実現しました。

 この体験を通じて、自分たちを取り巻くルールを自分たちが決定できる=主権者としての権能を行使する意味を知ることになったのが、「国民主権と法律」に関心を持つきっかけとなりました。

 大学法学部に進学したのも、当初は司法試験に関心があったからですが、残念ながら山岳部の

活動を優先してしまったために受験は断念。それでも後期ゼミナールは、「主権者」の意味を再度、学び直すために憲法学の杉原泰雄ゼミに所属することを選択します。

 本音を云えば、条文の少ない憲法は他のゼミに比べて負担が軽いかと考えただけなのですが、

それは大きな間違いだったのが、じきに判明することになります。条文が少ない分、ひとつの条文

解釈をじっくり時間をかけてやるだけ深く掘り下げる思考法が求められたのです。

 他の講義への出席は疎かにしても、ゼミへの参加は出来るだけ続けて、何とか4年で卒業出来たのは奇跡に近いことでした。ゼミの修了単位は卒論提出で取得しますが、私は『三菱樹脂事件』を取り上げ、いわゆる「憲法の私人間効力」という難関テーマに取り組みます。

 個人の「思想・信条の自由」と雇用者側の「経営権」との争いとなった本件は、この時点では係争中で、その後、最高裁での二審判決破棄差し戻しを経て和解が成立したのは私の卒業後でした。

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