お墓に関する考察(1)


  現在、国内各地で静かに広がり始めた問題が二つあります。

 それは「空き家」と「お墓」に関する問題です。

 

 どちらも、少子高齢化が共通の背景となっていますが、都市部の事例として佐藤家のケースを恥ずかしながら、ご紹介したいと思います。

 

 我が佐藤家は、祖父の若い頃(大正時代)に都内に住いを構えたそうで、私が3代目であることから、一応、江戸っ子と名乗っても良いようですが、それも私で終り。

 私の子どもたちは全員、岡山生れですので、江戸っ子の血筋は途絶えました。

 

 それはともかく、祖父のルーツは長野県松本にあり、兄弟の多い農家に生まれ、小学校を出ると直ぐに、東京へ仕立て職人の見習いとして上京してきます。

 

 その後、独立して結婚、大正末期に長男(私の父)を授かりますが、生まれつき病弱な長男を大事に育て、何とか戦争に取られることなく終戦を迎え、生活苦の中で長男の公務員就職・結婚と家族基盤を形成。孫(我々)も大きくなった昭和40年代の半ば、巣鴨にある法華宗別院・本妙寺に佐藤家の墓を建立します。

 

 戦死者も含め戦争中に亡くなった身内を祀りながら、生存している者の中では自分が一番先に入るつもりでいたのが、長男(父)が定年直前に病死。逆縁となりました。

 それから10年ほどして96歳で祖父は亡くなりますが、その葬儀後、私の母が唐突に「私が死んでも佐藤家の墓に入れて欲しくない」と言い出したのが、佐藤家の墓問題の始まりとなりました。

 

 祖父の存命中は口にすることの無かった母の主張は、終戦直後の新婚時代、祖父が博打に熱中してしまい、その借財を負担させられ続けた結果、惨めな生活を強いられたことへの恨みによるものです。

 

 私の生まれた後は、祖父の博打癖は収まったため、私自身の記憶には「好々爺」としか残っていないのですが、母と義父との確執は相当根深いものがありました。

 

 そしてその母の遺言に相当する主張が現実味を帯びたのは、米寿を超えてなお

独り暮らしを続けていた母が脳内出血で倒れ、要介護状態となってからでした。

 

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