さて、キリスト教関連で最近公開された映画と云えば、2017年1月公開の『沈黙-サイレンス-』が挙げられます。遠藤周作の原作をベースに巨匠マーティン・スコセッシ監督がメガホンをとった本作を鑑賞された方も多いと思います。
映画のタイトルである「沈黙」は、江戸時代の過酷な禁教政策下で虐げられる切支丹たちが、苦渋の決断として棄教する局面で、「神はなぜ、沈黙しておられるのか?」と問いかける所から来ていますが、原作の背景には、棄教した元切支丹たち、特に宣教師の中で棄教し処刑を免れた者は、イエズス会本部等からは「腐った卵」として見捨てられ切り捨てられていく過程を「神」は黙認しているとの解釈も含まれています。
平成28年3月までの3年間、組織人としての最後を大分県で過ごした私は、週末には山歩きの傍ら
「隠れ切支丹」の遺構巡りも楽しんできました。『沈黙・・』でも描かれているように、九州は隠れ切支丹のメッカですが、それは日本に基督教を伝えたフランシスコ・ザビエルが豊後国主・大友宗麟の庇護を受けたことを嚆矢とするからです。その後、織田信長が布教を許可し西日本一帯に切支丹大名が誕生していくわけですが、徳川政権下で禁教令が強化される中、辺境地帯である九州地方に信者が多く潜伏することになります。
そして、中央政権から派遣された大名による過酷な搾取に対抗する農民一揆的な要素と宗教弾圧
への反発とが一挙に「島原・天草の乱」となって噴出し、統一政権としてのメンツをかけた幕府の徹底的な殲滅戦により、長崎や熊本の切支丹は壊滅的なダメージを受けます。
一方、イエズス会が最初にセミナリオを建設した豊後国(現在の大分県)では、地形的な複雑さも救いとなったり、元切支丹領主が幕府には棄教したふりを見せながらも領民の信仰を保護した地域(岡藩=現在の大分県竹田市)もあるなど、随所に隠れ切支丹が残存し続けました。
現在、長崎県を中心に、キリスト教遺構について世界遺産登録を目指す動きが活発ですが、私に
云わせれば、そのルーツである豊後国遺構についてスポットを当てないのは片手落ちと思います。
いずれにしろ、JCSにしろ、沈黙にしろ、これらキリスト教関連の映画は私にとって宗教問題というよりは、権力機構と人権抑圧の問題として「今なお、そこに在る危機」を想起させる題材です。
映画に関しては、お奨めしたい作品など、もっと語りたいところですが、ここで「人権」というキーワードが出てきたこともあり、私と司法との係りについて触れていきたいと思います。
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